もう一つ前へ戻る コルヴィッツ ムンク ゴッホ アルトー
 人はこれらのデッサンを「芸術などにかかずらわったことなどかつて一度もない」その描線の、野蛮と無秩序そのものにおいて受け入れねばならぬ。その筆の走りにとっての関心事とは、線の真率さと自然な流露だけだったのである。
                         −アントナン・アルトー
1946.12.17   個人所蔵
1946.5.11  個人所蔵 糞便性の探究


糞の臭うところには
存在が臭う。
人間は糞をしないことだってできたかもしれぬ、
肛門の袋を開かぬこともできた、
しかし彼は糞をすることを選んだ
死んだまま生きることには同意せず
生きることを選んだからであろう。

つまり糞をしないためには、
存在しないことに
同意しなければならなかっただろう、
けれど彼は存在を
失ってもいいとは思わなかった、
つまり生きたまま死んでもいいとは思わなかったのだ。

存在の中には
       人間を
特にひきつけるものがあるのだが
それはまさに
       ≪糞≫なのである。
        (ここで赤面。)

実在するには自分を存在するがままにしておくだけでいい、
しかし生きるには、
誰かでなくてはならない、
誰かであるためには、
一つの「骨」をもたなくてはならぬ、
骨をあらわにすること、
同時に肉を失うことを恐れてはならぬ。

人間はいつも骨の大地よりも
肉の方を好んできた。
つまり骨の大地や森しかなかったので、
人間は肉を手にいれなければならなかった、
鉄と炎しかなく
糞がなかったので
人間は糞を失うのが怖かった
あるいはむしろ糞をほしがった
そしてそのため血を代償にしたのである。

糞を手にいれ、
つまり肉を手にいれようとしたのだ、
そこには血だけが存在し
骸骨の鉄くずだけが存在し
かちとるべき存在などはなく
生を失うだけでよかったのに。

o reche modo
to edire
di za
tau dari
do padera coco

そこで人間は退却し逃亡したのだ。

だから獣たちが人間を食べてしまった。

それは蛮行ではなかった、
人間が猥雑な食事に身を委ねたのだ。
彼はそれに味をしめ、
動物になること
巧妙に
鼠を食べることを
自分で覚えた。

それではこの卑劣な汚猥はどこからくるのか。

世界がまだ構成されていないから、
あるいは人間が世界についてまだちっぼけな観念しかもっていないから
そしてこの観念を人間がいつまでも保存しようとするからか。

それは人間が、
ある日、
       世界の観念を
停止させたからである。

二つの道が彼に与えられていた、
無限の外部への道と、
細々とした内部への道である。

そして彼は細々とした内部を選んだ。
そこでは鼠や、
舌や
肛門や、
亀頭を
しめつけるだけでいいのだ。
そして神が、神みずからが運動をおさえつけたのだ。

神とは存在なのだろうか。
神が存在だとすれば神は糞である。
神が存在でないとすれば
神は存在しない。
ところで神は存在しないのである、
けれども神はあらゆる形をまとって前進する空虚のようだ
その最も完璧な表象とは
毛虱の大群の行進である。

「アルトーさん、あなたは狂人だ。ミサはどうなるのです。」

私は洗礼もミサも否定する。
内面的性欲的次元にあって、
いわゆるイエス・キリストの
祭壇への降臨ほどに
いまわしい人間の行為は
ほかにない。
人は私を信じまい
みんなが肩をすくめるのがここから見える
しかしキリストという名の男は
神という毛虱を前にして
身体なしで生きることに同意したものにほかならない、
ところが十字架から降りてきた
人々の一団がある、
神は久しい前から彼らを十字架に釘付けしたものと信じていたが、
彼らは反乱し、
鉄、
血、
炎と骨で武装し、
〈見えないもの〉を罵倒しながら進んでいく
≪神の裁き≫と訣別するために。

ーアントナン・アルトー
1947.12頃  個人所蔵
1947.12(画面日付は本人による取り違え  個人所蔵
1947.6.24   個人所蔵
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